診立てと逆転移 |
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2008-07-31 Thu 22:40
![]() 『ちょっと前まで頑張りすぎていたうつのあなたへ』という 某製薬会社のポスターがある。 ここ数年、精神神経学会やうつ病学会で話題になっている 双極性うつに対して、ファーストラインでバルプロ酸を! というのだが、まだまだ双極スペクトラムが周知されているとは言い難く、 うつといえば、古典的なメランコリー親和型を背景とする 大うつ病性障害だと考えていらっしゃる先生方が大部分だ。 先日、何カ所かの医療機関を経て来院された患者さんの一人もそうだった。 某有名なクリニックを受診され、 TVなどで高名な先生の診察を受けられたそうだが、 診断はパニック障害ということでパロキセチンを処方されて 一挙に状態が悪くなられた。 確かにパニック障害は間違いではないと思うし、 パニック障害に対するパロキセチンの処方も誤っていない。 でも、その人の生き様というか、 これまでの経過に対する視線がなさ過ぎると感じた。 明らかに気分の波があり、いい時期と悪い時期の周期性があって おまけにうつ状態も非定型だし、 一番ひどい時のクロミプラミンの点滴治療に対する反応性も 期待されたほどではなかったことから 双極スペクトラムを疑うべきなのに、 その先生は、患者さんが訴えるパニック症状のみで診断を下されている。 一昨年から、双極スペクトラムの患者さんが増え、 ムード・スタビライザーの投与と双極性障害の心理教育、 それから精神療法で何人も卒業させているけど、 一時期、あまりの診立て違いの多さに 私が間違っているのかも知れないと疑心暗鬼になったこともあった。 そんなときに「毒舌セカンドオピニオン」というページを目にして 患者さんに向精神薬という劇薬を処方することが どんなに責任感のある事なのか、 いかに治療者の逆転移を反映するものなのかを改めて思い知った。 |
怨念と祟りと心理相談 |
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2008-07-29 Tue 22:26
![]() 先日、こんな相談を受けた。 交際相手(B君)の度重なる裏切りに心を痛めて 別れようと思ったけど踏ん切りがつかなかったAさんは、 友人から紹介されたある霊能者の処に相談に行ったところ、 霊能者はAさんを見るなり顔を曇らせて、こういう事を言われたそうだ。 B君の生家は元々地主だったが、何代か前のご先祖が欲に走り、 借地人を追い出した上、土地を広げようと 近くにあった祠を壊してしまった。 このままではあぶない。 B君のご先祖を恨んでいる人達の怨念と 壊された祠に祀られていた神様の祟りが一緒になって 今まで関わったことがないくらい強力な怨念の塊が B君を通じてあなたのうちにも集まっている。 B君の家も、B君自身も無事ではないはず。 七代続く祟りだから、家長はまっとうな死に方をしない。 B君とスッパリ縁を切るか、さもないとあなたの家族が次々と命を落とす、と。 こういう強い怨念の塊は関わったことがないので、 どうしたらよいか上の神様に聞いてみるので、何日か経ってから連絡をして欲しい、と。 Aさんはビックリしたそうだ。 B君の家系は代々男性が短命か不幸に見舞われるそうで、 父親も事業に失敗して行方知れず。 おまけに敷地内に祠の跡だけが残っていると。 振り返ってみると、B君の裏切りも 何人もの友人が目撃しているにもかかわらず、 本人は絶対にないと否定する。 しかも、口論の途中で辻褄の合わないことを言ったかと思えば フッと前言を翻し、本当に記憶がない様子。 霊能者から言われたことを考えると、 まんざら当たってないわけではないのでコワイと。 なぜ医者の私に相談?という疑問もあったが、 とりあえずは解釈を考えてみた。 B君に嫁ぐということは、Aさん自身もB家の因縁を背負う事になるはず。 それで幾ばくかの影響がAさんの実家に及ぶということも考えられなくもない。 しかし交際段階で、そこまでの七人ミサキみたいな怨念が及ぶのか? B君と別れられないAさんはもしかするとB家から呼ばれているのか? 話を聞きながら自然と心易を立てていた。 兌下離上 二爻変 あ〜、そんなことか。 とりあえず、Aさんから霊能者に伝言をしてもらうことにした。 怨念かどうか、その障碍がAさんに来る必然性はわからないが、 もしそうだとすれば、B家と借地人をつなぐ 壊された祠に祀られていた神様の供養を通じて 怨念を解消するしかないのではないか。 神祇は般若の法味を喜ばれるので、理趣分転読で供養して、 怨念は光明真言法で解消するしかないと思う。 加えて、Aさんに累が及ばないようにするにはAさん宅の結界、 Aさん家族各人の祓いには般若心経の写経と、 神様を供養した理趣分加持で大丈夫ではないか、と。 さて、どういう返事がかえってくるやら。 というよりも、こういう事を通じて Aさん自身がB君との関係という現実と向き合えればよいのだが。 |
ガラスの対人関係 |
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2008-07-28 Mon 21:11
![]() 一体、どうしたというのだろう? 苦手な人、気が合わない人なんて 昔から自分の周りに一人や二人いたはず。 言い合いになったり、無視したり。 私も研修医の頃に、ある指導医から冷遇され無視されたことがある。 間違った事をやって叱られるのは仕方がない。 でも、理由もない言いがかりに対しては、 たとえ相手が上司であっても、それは違うと ちゃんと言うべき事は言えていた。 だから無視という誠意のないコミュニケーションで返されたのだろう。 自分が指導する立場になった時は、 キビシイと怖れられていたという話を後輩から聞いたが、 どんなに厳しく叱りつけても こいつはこういう一面もあるんだと思うようにしてたし、 叱った後は必ず褒めるようにしていた。 しかし、最近の患者さんを見ていると、そうはいかないらしい。 パワハラやモラハラという言葉が流行するくらい 対人関係、特に上司との関係は容易に破綻するようだ。 知り合いのカウンセラーさんから紹介があった。 上司が自分に辛く当たる、無視されるなどのパワハラで わけもなく涙が出たり、会社に行く気がしないと。 心療内科を受診し、抗うつ薬と抗不安薬を処方され、 うつ状態だから仕事を休むように言われたそうだが 休むともう働けなくなる気がするということで 休みたくないし、クスリも飲みたくないと。 カウンセラーさんからは、自我が弱そうなので 補強出来るようなメジャー(抗精神病薬)をということだったが、 正直、受けようかどうか、迷う気持ちが強い。 パワハラやモラハラは対人関係の問題であり、 多くの場合、現実に起きていることに対する 二者二様の解釈が異なっていることと 期待と要求のズレが見えなくなっていることが原因なので、 相手、あるいは自分が病的でない限り コミュニケーションの回復を図るのがスジだろう。 それが適わないくらい苦しいのであれば、 クスリを服用するということも 状況を変えようとする努力の1つではないだろうか。 一度休んで向き合う体勢を立て直すのも方法だろう。 ところが、クスリも飲みたくない、休むのは後が大変という事では 現状を変えるのはムズカシイのではないだろうか? というよりも、クライアントさんは現状を変えることに すごく消極的なのではないか?という気がした。 自我が弱いのではないと思う。 変化に対する耐性が低いだけなのかもしれない。 おそらく、これまで辛い出来事を自分の心というオブラートで包み 見ないようにして生きてこられたのだろう。 それが上司との関係という大きな出来事に遭遇し 包むだけのオブラートの余裕が無くなり うつ状態になったのではないか?と想像出来る。 おまけに、過去の未整理の情動記憶が想起され わけもなく涙が出るという連結された情動反応を呈しているのではないか。 ところが、このときにエピソード記憶が想起されていないのは もしかすると解離性健忘と同じ状態が このクライアントさんに起きているのではないか? 電話を受けながら、そう考えたのだった。 解離性同一性障害のような華々しい解離ではなくても、 このような抑圧の質的変化による解離的状態は 日常臨床で目にすることが多くなってきた。 香山リカさんが『多重化するリアル』で述べたように 日常的な解離が蔓延する時代になっていることを実感する。 |
今日のリアリティって? |
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2008-07-27 Sun 18:29
![]() ある学会で日本でその名を知らない人がいないくらいの カリスマ精神科医であるやんごとなき御大の招待講演を行われた。 その中で内海健先生の『うつ病の心理』を絶賛され、 この本に書かれているように「大きな物語の喪失」が うつ病からの恢復を困難にしていること、 また安易な抗うつ薬の投与が遷延化を促進していることの憂慮を話された。 たとえば、いつまで抗うつ薬を使うのか、という物語が失われることで、 10歳でうつになったら、あと75年クスリを飲み続けて うつから開放された人生を過ごす方がいいのか?と 逆説的な問いを突きつけられた。 御大が講演の中でチラッと触れられた ディスチミア親和型のうつ病は感情障害、 双極は気分障害というフレーズも目から鱗が落ちる感じだった。 実は、当日の朝、こんな夢を見たのだった。 2ヶ月ぶりに来院されたご夫婦。 寝たきりのお婆ちゃんのCTを持ってこられ、 解離性大動脈瘤は血栓化している。 これは年齢から考えても手術はしなくてもいいでしょうねぇとお伝えすると 担当の先生も手術せずに様子を見ましょうとおっしゃったと。 2ヶ月ぶりに来院されたので、薬はどうしていたのか?とお聞きすると 付きっきりで見てないと周りに迷惑をかけるから この2週間はすごく大変だったと。 でも寝たきりになってしまわれたので、 クスリは減らしましょうとお話したら、 このままだと大変だからおとなしくして欲しいと。 カチンと来た。 向精神薬を使うっていうのは、相手の人生に責任を持つということだ。 治療者や家族のために使うのぢゃない!と 息子さんの胸ぐらを掴まんばかりに息巻いたところで目が覚めた。 御大のお話と何かしら符合する処があるような気がする。 何かの本で「無痛文明」というフレーズを見かけた事があるが、 まさに現代は苦を回避し快の追求に明け暮れる 葛藤耐性に乏しい口唇期に退行した感がある。 失恋したといっては抑うつ状態が遷延し、 上司から注意されたといっては会社を休職する。 「自分」という感じを育てるはずの苦しみ・痛みという感覚は 見ないようにすることで分割・回避され、 出来事としてのリアルが時間の流れ〜体験・経験〜として根付く アクチュアリティが薄れてきているのではなかろうか? アクチュアリティは現象とのあいだの絶え間ない inter- and/or intra- actionによって生じる“こと”だが、 リアリティとアクチュアリティが乖離すると ファントム理論の安永浩先生がおっしゃるように 主観性をおびた外空間定位(原投影)が浮き彫りになり、 主体の拡散、彼我未分、表象の知覚化などを特徴とする状態を呈しやすくなる。 この離隔や意識変容はとりもなおさず離人感や解離で見られるものであり、 記述的症候では類似しているように思える中安信夫先生の 初期分裂病(統合失調症)でもみられる。 個人的には、笠原嘉先生が提示されたように 自我の分割が、境界例や自己愛、軽症スキゾフレニアでは垂直分割、 水平分割での抑圧の質的変化が解離と考えているので、 区画化された自我がアクチュアリティを取り戻す試み?の1つとしての ディスチミア親和型や解離などの症状なのだろうと考えている。 御大のお話を咀嚼していると、解離の事を書きたくなった。 |
ハイマート(故郷) |
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2008-07-26 Sat 21:54
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「何の罪もない」〜自己愛性と反社会性〜 |
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2008-07-24 Thu 09:27
![]() ため息をつきたくなる。 茨城県土浦、大阪駅、秋葉原、愛知バスジャック、八王子と 頻発する通り魔事件。 犯人は「ムシャクシャする」「誰でもよかった」という葛藤耐性の低さ、 「名前がマスコミに出る」あるいは「親を困らせてやりたい」など 未熟な自己愛。 マスコミ評は「身勝手」「理不尽」という言葉で埋め尽くされている。 コフートは二者関係(特に母子関係)の欠損により 共感と理解を得られない怒り〜自己愛憤怒〜を生じるという。 この自己愛憤怒が親に向けられずに無関係の他者に向いた時に 「通り魔」という形の行動化が生じているのだと思う。 コミュニケーション不全というか 期待と幻滅に満ちあふれた家族関係の空虚さ。。。 一方、被害者に対しては、犯人と無関係であり、 「何の罪もない」と同情が寄せられる。 無意識に使われるこの言いようにも 歪んだ自己愛の蔓延を感じるのは私だけだろうか。 自己愛の傷つきは、共感と理解の欠如という対象関係の欠損だが 自分のせいと感じられる。 「自分が悪いんだ」「わたしがしっかりしていないからいけないんだ」 しかし、正当化という防衛反応によりこの傷つきが外に向かうと 「自分がこうなったのは」親のせい、学校のせい、社会のせいと 罪のありかが外界に投影・転嫁される。 「罪もない人を傷つけるのは悪いこと」が一転して、 「自分をこんな目に遭わせた社会に仕返しするのは当然のこと」という 反社会性として凝縮される。 つまり、「何の罪もない」と犯人を糾弾している人の中にも 立場が逆転する可能性が充分にあるということだ。 犯罪心理学には詳しくないが、 以前から「何の罪もない」という言い方に違和感を感じていたので、 自己心理学との関連で自己愛・反社会というスペクトラムを考えてみた。 |
関係性とコミュニケーション |
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2008-07-22 Tue 23:02
![]() ある会社の産業医の先生から電話をいただいた。 別のクリニックにかかっている患者さんを紹介したいとのこと。 話を伺うと、そのクリニックでは話も聞いてくれないし、 うつ状態で仕事を休むように言われるだけで、診断書も書いてくれないと。 以前、その会社で働いている方について 業務調整のお願いを送ったことがあって、 これだけ患者さん主体に考えてくれるクリニックならということで 紹介したいということだった。 気持ちはありがたいのだけど、お断りした。 他のクリニックにかかっていて、話を聞いてくれないから 転医したいという同じような申し込みが多い。 うちのクリニックを受診することで、 その患者さんの思いは本当に満たされるのだろうか? 相手の思いを察して配慮しあう事を期待する、 あるいは自己主張せずわかってもらいたいという期待が 日本的な関係やコミュニケーションの根底をなしている。 言語化しない限りは伝わらないという自明の前提を持つ 欧米型のコミュニケーションとは正反対である。 岡野先生は『解離性障害』の中で「関係性のストレス」という 概念を提言されているが、まさに至言である。 対人間(インターパーソナル)関係の中で コミュニケーションが介在する対人(イントラパーソナル)関係は、 当事者同士の「関係性」の問題である。 話を聞いてもらえないのは、 話を聞いて欲しいと伝えても聞いてもらえなかったのか、 伝える雰囲気でないと感じているのか、あるいは、 伝えても聞いてもらえないと思っているだけなのか、 まずそれが問題である。 伝えても聞いてもらえなかったのであれば、 コミュニケーションが成立していない不誠実なあり方だが、 黙っていてもわかってもらいたいという期待だけが 表現されずに燻っていることがほとんどである。 そのようなコミュニケーション方法に慣れ親しんだ人が うちのクリニックに来ても、結果は同じであろう。 関係性の問題はどちらか一人が原因なのではなく、 当事者が共同で築くものであり、 その人の投影を受けて同じような関係性が再現される可能性が大きい。 たとえば、こういう事も例として挙げられるだろう。 AさんとBさんは仲がよいが、AさんとCさんは対立関係にあるとしよう。 Bさんから見るとAさんはよい人に見えるが、 CさんからはAさんはトンデモナイ人に見えるだろう。 よい人でもありトンデモナイ人でもあるAさんという人がいるのではない。 AさんとBさんの関係性、AさんとCさんとの関係性が Bさん、Cさんに別人とも思えるAさんを見せているに過ぎない。 もしかすると、診断や診立てもそうかもしれない。 |
病態と病態水準〜心理と精神病理の齟齬〜 |
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2008-07-21 Mon 14:36
![]() 病態水準についての話が食い違うことを感じることが多くなった。 スーパーヴァイザーは、妄想があれば精神病圏としてしまうが、 私自身は、自我違和性に対する自我側のあり方によって 同じ妄想(念慮でもかまわないが)でも 神経症圏から精神病圏まで広く分布していると考えている。 なので、同じテーマを話していても なんとなくズレている感じを受けてしまい、 言葉の意味と定義、用法にさかのぼって議論しなくてはいけなくなる。 こういう事があった。 うつ病やうつ状態の患者さんの精神療法の過程で患者さんが表現する 「虚無」が話題になった。 虚無は母と子の関係性のあり方のくり返しであり、 セラピストとクライアント関係のあり方への問題提起であるという スーパーヴァイザーの意見には納得しかねた。 スーパーヴァイザーが話題にした発達論的な虚無は 見捨てられ不安であり、妄想分裂ポジションでの分裂の隙間であり、 確かにそういう一面もあるのだとは思う。 しかし問題にしたのは、うつ病患者での虚無 〜内海健先生が『うつ病の心理』で述べているような〜であり、 それを見てしまうと自らの足元が崩れ去るような存在の不確かさ、 同時に自己という「意識の連続性」の不連続性でもあった。 こういう話題になったのは、次々と枝葉に別れていく自生思考を持った患者さんを これが前駆期統合失調症なのか解離性障害(DDNOS)なのか相談している時で、 スーパーヴァイザーの意見は統合失調症だった。 抗精神病薬を使って、よくなってくると抑うつ状態になる。 その時に、ちゃんと抱えられるかどうか、という話から ポストサイコーティック・デプレッションでも うつ病やうつ状態の人が垣間見る「虚無」を感じるのか? という展開になったのだった。 私は上記の患者さんは解離性障害と捉えているので、 離人感や自生表象、気配敏感症状、聴覚過敏などがあっても ちゃんと体験の内容を聞いてあげることが治療につながると考えているが、 スーパーヴァイザーは、統合失調症では体験の内容を話題にせず、 むしろ抑圧すべきであるという意見だった。 ということは、心理療法では、診断あるいは診立てによって 取り組み方が異なるということなのであろうか? その人のありかたそのものを抱えるということと、 診断によって、取り組むものや取り組み方が違うということは 矛盾しないのであろうか? 私たちはクスリという第三項を使いながら共視関係に持って行けるが、 心理療法では、それをメタスキルで補わなければならないところが 違うのかもしれない。 いずれにしろ、心理と精神病理では、 体験様式の把握の仕方の違いが、こういう齟齬に現れているようだ。 |
医療は崩壊したのか?腐敗してたのか? |
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2008-07-18 Fri 22:00
![]() とある著明な大会社の社員さんを復職させようとしたら 「産業医はいるが機能してない」とのこと。 何のことかわからなかった。 話を伺うと、これまで休職した後に復職した人はいないとのこと。 さらにわからなくなったので、産業医宛に診療情報提供書を送り、 面談を依頼したのだが1ヶ月以上なしのつぶてだったので、 患者さんが人事部と話し合いに行ってくれて、ハッキリした。 つまり産業医は名ばかりで、会社は名義貸し料を払ってるだけとのこと。 産業医面談をするとプラスウン万円必要とのこと。 おまけに、「健康な状態で雇ったのだから、 復職時も雇用時と同じ状態になっていないと復職は認められない」と 人事部長に言われたとのこと。 厚生労働省の「労働者の心の健康の保持増進のための指針」や 「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」は 努力目標であって、実現目標ではないとのこと。 あっけにとられた。 怒りを通り越して、ため息しか出なかった。 情けなさ過ぎる。 仕事柄、これまで数十人の休職と復職を手がけてきたが こんないい加減な会社を相手にするのは初めてだった。 おまけに、産業衛生の場でも名義貸しがあることに 愕然とした。 私自身も大学院の時に、教室の某文部教官の口利きで 名義貸しをしたことがある。 それでも、月に1回の当直と外来は必須だった。 某公立大学医学部の準教授が 学位審査の謝礼を受け取っていた問題がニュースを賑わしたが、 うちの母校でも学位論文の主査と副査2人の教授に 謝礼を包むのが慣例になっており、 その後、お礼奉公として辺鄙な関連病院に出向することが当たり前だった。 点滴液の作り置き問題にしても、 ある医療機関に勤務中に、入院した患者の抗生剤治療中に 点滴後に悪寒戦慄を伴う発熱を来すようになり、 結局、敗血症で亡くなったケースが何例かあった。 看護師さんとやり合ったが、作り置きの解決には至らなかった。 研修医制度が始まって以来、病院の医師不足が問題になっているが、 医療が崩壊したのは、医療という幹がすでに腐敗していたからではないのか? これまでの自分の来し方を振り返り、現状を鑑みるとそう感じざるを得ない。 |
何が目的のインタビューなのだろう? |
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2008-07-17 Thu 21:57
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ケースカンファランス |
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2008-07-16 Wed 22:33
![]() 巧い人のケースレポートを聴いていると 空間が面接室のような雰囲気になり 心地よいヴァイブレーションに包まれ あたかも目の前でケースが繰り広げられているかのような 心地よい共同幻視に包まれる。 先日のケースカンファランスもそのようだった。 表出の出来ない患者(クライアント)さんに ただしっかりと寄り添ったセラピストの態度は、 まるでヘレン・ケラーがサリヴァン先生から 「WATER」のアクチュアリティを通じて世界と触れたのと同じような 双方の感動が伝わってくる。 まるで母子関係のように満足と安全によって特徴づけられた イントラ&インター・パーソナルな関係が コトバを越えた「観の眼(メタスキル or 共視)」をともなって ゆったりと拡がっていくさまを聴いていると、 テクニックではない結果としてのミラーリングとはこういうものか・・・と まざまざと思い知らされた。 |
対人関係療法(IPT)セミナーの後で |
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2008-07-13 Sun 17:48
![]() 以前より興味があった対人関係療法のセミナーを受けてきた。 本で読んだだけでは、ボンヤリしていた輪郭が、 実際に講義を聴くことによって、ハッキリしてきた。 こういうことだろうか。 仕事や学校という役割的人間関係の変化と 家庭という存在的人間関係の不和を考えた場合、 2つの世界との対立で親和的関係が喪失し、 その状態が、自分の(脳を含めた)身体との対立として 「今・此処」での「生」が揺らぎ、危機に陥った状態が いわゆる精神的な障害として現れている。 その対人関係問題に対処する方法を見いだし、 対処法というスキルを身につけることで 症状のみならず、対人関係も改善していく。 上記は病因論的に書いてみたが、 病因論を云々しているわけではなく、 相互に影響を与えるという事実であり、 この方法は文化に特異的ではなく、人間に普遍的な方法で スキルを身につける教育的治療と言えるのだと思う。 だからこそ、高いモチベーションを要求される 認知行動療法に比べ脱落率が低く、 認知を問題にしないにもかかわらず、 終結後には認知が変容し、行動パターンも変化するし、 治療終結後にも、スキルを活かし続けることが出来るのだろう。 初期には転移解釈をしない精神分析のようであったそうだが、 確かに治療者に要求される注意深さは 治療者エナクトメントと通じるものがあった。 しかしなによりも、コフートの自己心理学や対象関係論がいうように 共感と理解という充足感の欠損に対して、 それをインキュベートする他者としての治療者の存在と その実践が自己の修復に関与するのだろう。 つまり、下坂幸三先生がおっしゃる 「常識的心理療法」〜真の意味での支持的療法〜であり、 鏡のような自己である他者をはぐくむ方法なのだなと実感した。 |
プロセスワークの瞑想法 |
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2008-07-09 Wed 23:10
![]() このところ疲れていたのだけど、 今日の「仏教心理学セミナー」はなかなか面白かった。 教育分析ではインナー・ワークになることもあるが その瞑想バージョンといったところか。 自分の中にチャンネルを通してわき上がってくる感覚を フォーカシングのようになぞりながら 自我親和的・自我違和的なプロセスとともに contemplateしながら抵抗にもサティを入れて、 ひとつひとつのプロセスを繰り返していく。 変容・・・、あるいは受容が目的なのか? ゾクパ・チェンポでいうニェメ(止観双修)とも違うし、 チャクチェンに似てるけど、放擲しないし。 此処まで書いて気がついたが、世俗諦の瞑想だからだ! トンパニ(空性)やテンチュン(縁起)、デワチェン(大楽)なしの。 まぁ、行者として法を使うにはちょっとやり方が違うかも。 心理療法だけでやるなら別だろうけど。 しかしながら、1つの心理学をしっかり持っておくことは、 他の心理療法を学ぶ時に役に立つなぁとは思う。 法の世界でも「一法は萬法に通ず」と言うし。 |
内科的精神科と外科的精神科 |
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2008-07-07 Mon 23:10
![]() 精神科のドクターが集まる、ある会合でのディスカッションの時、 「患者さんの心の中に踏み込むのは良くないのではないか」 という趣旨の意見が出た。 驚くというよりも、やっぱりそぅだよなぁ・・・と思った。 以前から、なんとなく精神科医には2つのタイプがあって、 精神療法に対して消極的というより、否定派もいらっしゃるのでは?と 思っていたが、やっぱり・・・という感じだった。 それはそれで、いいのかもしれない。 精神療法は、分析のような特定の方法を教わる場合は別として、 系統的に教わるものではなく、先輩のやり方をまねつつ なんとなく、それらしい話をして終わるのがほとんどだからである。 たとえて言うなら、ほとんどの精神科のドクターは、 薬物療法を主とする内科的な精神科医なのかもしれない。 だから、患者さんの無意識に踏み込むのは 領域侵犯のような感覚で回避されるのだろう。 分析であれ、その他の精神療法であれ、 ある技芸(メチエ)を身につけて、患者さんの心に向かうのは 外科的な精神科といえるだろう。 どちらがいい・・・とは一概に言えない。 自分の本当の姿と向き合うのを避けている患者さんがほとんどなので、 癌の治療で化学療法や放射線療法を選択するのと同じように、 いろんな薬で症状を軽減する多剤併用になるが、 気長にノンビリと治療に向かう事が出来る。 精神療法という外科領域では、 自らの心をメスとして使うため、 薬はギプスや化膿止めという役割を担うことになる。 ただ外科と違うのは、治療が共同作業になるため、 お互いの無意識領域での影響が出やすくなる。 そのため教育分析という、自らがクライアントになっての修練を積む。 それでも相互影響はいろんな形で現れてくる。 たとえば、セミナーや勉強会の後、そのような患者さんが続いたり、 受付のスタッフが患者さんと同じような状態に陥ったり。 潜在意識(無意識)の力動がわからないと、 原因不明の体調不良や、なんとなく自分ではないような感じの、 「伝染(うつ)」ったり、「憑依(つ)」かれたりの状態になる。 TVなどで見かけるスピリチュアル云々の多くは このたぐいであることがほとんどのようだ。 以前、拝み屋さんから受診を勧められたと 患者さんがいらっしゃったこともあるし、 あるいは、私がお祓いを勧めたこともある。 後者の場合、私がやってもよかったが、 一応、医者として向き合ってたので どこそこのお寺でこれこれという祈祷をしてもらうように勧めた。 とはいうものの、決して大脳局在論とか セロトニン仮設、ドーパミン仮設を否定するのではなく、 科学だけでは説明出来ない「心のありよう」があることを ただ謙虚に見ているだけである。 |
解離機制によるストレス対処と憑依およびその治療 |
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2008-07-06 Sun 19:35
![]() ストレスとなるようなイベント体験は、通常、 時間の経過とともに過去の記憶に伴う苦痛は薄れていく。 おそらく、エッセンスである経験とイベント記憶と感情のパーツに消化され 各々が脳内のいろんな部分に蓄積されることで 時間とともに感情や記憶が流れて風化していくように感じるのだろう。 ところが、である。 中にはこういう処理が出来ないため、 とりあえず自我の袋で包んでイベント体験のまま放置されているらしい。 このような対処では、一時的に苦痛は回避されても、 その感情に伴う苦痛や葛藤は消化されることがなく、 類似体験を繰り返すことで葛藤が蓄積し、 それを包み込み周縁化するために自我はどんどんやせ細り、 心理的負担は大きくなり、ストレスに耐えられなくなる。 このような状態では、「“今・此処”にいる私(主人格)」の中に 「過去のままのもう一人の私(交代人格)」が共存することになる。 このような典型的解離性障害ではなくとも、 プチ解離的なストレス対処(内在性DID)は多くの人で見られ、 自問自答(あるいは脳内会議)をすることが多いという。 今日のセミナーは、こういう内在性DIDに対する 『タッピングによる潜在意識下人格統合法(USPT)』だった。 要はタッピングにより交代人格を呼び出し、主人格と統合する方法。 プロセスワークの1次プロセス・2次プロセスと技法的には共通しており、 ナラティヴを紡ぎ出して統合まで導き、肩甲骨周辺へのタッピングで統合する。 面白いのは、最後に、基本人格を成長させ、主人格をその中に入れてしまうやり方。 プロセスワーク的には、2次プロセスを生きるということであろうか。 エッジ(抵抗)を越える時には、意識レベルを下げるタッピングの方が やりやすいのかもしれない。 また、統合の時の肩甲骨周辺(特に風門部)へのタッピングは 抜き加持の最後にも風門を閉じる作法があるように、 セラピーの構造枠として有効なのかもしれない。 ただ、”憑依人格”とされたものは、本当に霊かどうかは定かでなく ビデオを見ている感じでは、単なる自我から遠い人格であるように思えた。 なぜなら、ニューエイジ系が言うような頻度で憑きものとしての憑依は起きないし、 輪廻する主体が人格であるのもあり得ない(多くは残留想念?による被影響体験)。 USPTでいう浄化という「光の天国に送る」作業は、 単なる二元論の中への送還、つまり輪廻の中に戻しているだけなので、 USPTは「困難があっても自分で乗り越えていく」覚悟のない人には適応とならず、 また統合後もそれまでの回避・解離的なストレス対処の習慣をやめない限り いつしか複数の交代人格を作っているという輪廻に戻ってしまうからである。 これは祈祷の場合も同じで、「やってもらう」というお任せ感覚では験が出ないので 祈願内容によって、ある一定期間の写経や勤行を課す事が多い。 つまり、交代人格の統合が治癒的に働くのではなく、 モチベーションと治療者との共同作業が奏功するのだろう。 |
自己欺瞞 |
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2008-07-04 Fri 22:24
![]() 先日、TVで防犯グッズの特集を見ている時のこと。 最近流行りのポータブル・ミュージック・プレイヤーを聴きながら歩いていると、 周囲の音が聞こえないというのだ。 インタビューに答えた女の子が話していた。 「音楽を聴いて明るい気持ちになっていたら、暗いのが怖くないから」 愕然とした。 チベットのあるラマが、現代社会を指して 「神経症的な、あるいはパラノイア的な狂騒」とおっしゃった。 自我(エゴ)は「その自己に快楽を与え、苦しみから守ろうとするのだ。 日々の体験は、私たちに自己の無常さをさらけ出す脅威をたえまなく与える。 そこで、私たちは自分の真の状態を見出すあらゆる可能性を覆い隠そうとあがくのだ。」 「私たちは自分の混乱した世界観に完全に飲み込まれ、 それがリアルな、存在しうる唯一の世界だと信じ込んでいるからだ。 固定して継続的な自己という感覚を維持しようとするこのあがきこそ、 エゴの行為に他ならない。」(チョギャム・トゥルンパ『タントラへの道』) 通り魔的な犯罪のような自己の無常さをさらけ出す脅威に対して 自分自身(自己)を継続しようとする危険回避本能を放棄してしまうくらい 自己の土台である無(空性)への怖れの方が大きいというのか? 暗闇恐怖の方が本能よりまさっているのか? 自己欺瞞を勝ち取った自我(エゴ)は、その策略によって 私たちの世界を何処に向かわせようとしているのだろう。 |
家族面接 |
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2008-07-02 Wed 23:21
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| 東風(こち)吹かば |
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