やっぱりクリニックのブログ優先! |
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2006-05-29 Mon 23:42
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逍遙游 |
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2006-05-28 Sun 23:26
![]() 教育分析を受けた後は、いつも泥のように疲れてしまいます。 普段の臨床では、容器のなかでイマージュと戲れているので 必要なことだけ、コトバに翻訳するだけで済むのですが、 教育分析では、翻訳して伝える作業が不可欠。 海に潜って魚や貝を採っては、息継ぎに水面まで戻る 海人(あま)になったような気分。 それにしても、こころがこころと出逢うことの不思議を なんと表現していいのか、その神秘にいつも 畏敬の念を感じてしまいます。 Unus Mundus(一なる世界) 観念と物質の区別もなく 私と他人との境界も揺らぐその領域で この世ならざる世界を観じ この世を突き動かす根本に触れ そしてこの世に存在する。 明日からまた無尽蔵のイマージュの海で逍遙游。 性海(しょうかい)に棲む、 第六識の心王(妙観察智)でもある思量の覚体の小さな蛇は いつになったら本有無作の龍として 百会から宙空に駆け昇るのでしょうか? |
言霊使い |
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2006-05-18 Thu 00:35
![]() 「今日は・・、あぁ!なるほど!気分が落ち込むんですね・・」 インテーク用紙に目を走らせ、視線を上げて患者さんを見つめる。 ちょっと緊張した面持ちから、 いつも自分が初めて患者になったときの瞬間を思い出す。 「えぇ・・・」 意を決したように患者さんの言葉が流れ出す瞬間、 もう私は自分の世界に浸っている。 患者さん越しに見える表参道の街並みに 見るとはなしに視線を漂わせながら 意識は自分の中を観ており、 言葉にならない表現できない何かが動き出すのを観じている。 「・・・・・・」 ・・・・言葉が途切れた・・・・・ 「それは、もしかするとこういう感じじゃなかったのですか?」 医師であると同時に、 かつて同じ苦悩を抱いた一人の人間として 聴いていなかったと思っていた相手の言葉を リフレーミングのように自然に口をついて繰り返している。 「・・・そうなんです!」 相手の貌が輝く。 途端に、目の前か自分の中かわからない「場」に 映像にならないストーリーが展開する。 「それはね・・・・」 ストーリーを観じながら、それをコトバに翻訳する。 「そぅ!そうなんです!」 やっとわかってくれた・・・そういう想いが伝わってくる。 でも、それは『今、此処』で、 『この場』に生まれた生きた物語であることは 私が一番よく知っている。 『今、此処』で向き合う私と相手が織りなすタペストリー。 その重々帝網に織り込まれ 展開する関係性。 ある意味、storyteller。 あるいはnarrative。 ナラティヴを紡ぐ「言霊使い」。 セラピストなんかじゃないのかもしれない。。。。 サイコ・セラピスト、カウンセラーの方、スミマセン。 傾聴せずに自分の世界に浸ってますし、 共感せずに自分の中しか観てません。 自己中心的ではないんだけど、 自分中心的なんです。<(_ _)> |
静寂の舞踏 |
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2006-05-17 Wed 08:28
![]() ある患者さんの最後の受診の日、 患者さんへの加持と亡くなった方の供養の意味で、 ナムチュー・シトリィ・ナルジョル (ミンギュル・ドルジェの中陰における寂静忿怒百尊の瑜珈) を修してあげました。 その前から、シンクロニスティのような いくつもの徴や符丁が具現していたので、 少なくとも最終的な解放の因を 植えてあげることが出来たと思っています。 陪席してくれたNsによると、 シトロゥが終盤にさしかかった頃、 診察室の中でで女性が踊っている気配を感じたと言ってました。 終盤というと、Song of Vajraを歌っている頃。 Nsは、その場に引き寄せられ現れたエネルギーを、 踊る女性として観じたのでしょう。 踊る女性〜空行のダンサーであるdancing dakini〜。 Dzogchenのタントラ教典では、 Song of Vajraが歌われる場所はすべて聖地となり、 何千万のdakiniがそこに現れると言われているそうです。 Song of Vajraを通じて われわれが統合する智慧とエネルギーこそがdakiniである、 といわれています。 Song of Vajraの功徳により、 dakiniの祝福がすべての人に注がれますように! |
『心理療法の想像力』〜その2〜臨床での忿怒(ふんぬ)と瞋恚(しんに) |
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2006-05-16 Tue 12:52
![]() この前、患者さんと大ゲンカしちゃいました。(^^;) でもホット・スポットを通り過ぎると 今までにない展開が・・・・( ̄д ̄;) またしても織田センセの『心理療法の想像力』からの ながい引用です。 ほかの学派の心理士さんやカウンセラーは どう感じるのだろう? ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー 心理療法場面では、治療者が病気を受容することが課題とされてきた。心理療法家が治療者として充分訓練されているなら、患者に怒りを感じることなどあり得ないことのように考えられている。治療者の受容性は自ら心を閉ざすことではない。心理療法家が自分の持つ感情に心を開くことは、患者が重症になればなるほど重要性を増す。治療者が抱く感情のなかで怒りは、患者や自身の心の傷つきと密接に関係しているために、特別に心理療法的意義が大きい。 ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー 治療者が患者との心理療法的関係のもとで体験する怒りは、破壊的に作用するとは限らない。もしも治療者が患者に怒りを感じながら抑圧したり分裂させたりするなら、それは当然患者に最も悪影響を与える。 ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー 癒しが生じるための前提として、傷つきが存在しなければならない。私たちが自らの傷付きを認め、それに向き合うことは容易ではない。このことは健康な人でもそうだが、不思議なことに、心が深く傷ついている人にとってはさらに困難である。傷つくということは、換言すれば病気になるということでもある。治療者と患者との中間領域における容器のなかで、傷つきや病気が癒されるというしんどい過程を、患者との関係性の深まりを通して守り支えるという仕事がなされなければならない。 ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー 破壊がなければ建設も生じない。心が傷ついた人はその傷つきに向き合う大変さのために、自分が傷ついていることを認めることができない。自らの傷に向き合い、痛みを感じることが可能になって初めて、心の癒しが始まる。人間の心の信頼できる側面ばかりが強調される社会に住む私たちは、そのスローガンの偽善性に個人個人で取り組むことが求められる。心理相談や心理療法が広く迎えられているが、これらのことが一つの要因だろう。 ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー 容器のなかでの患者の作業は、しばしばつらく困難なものである。困難やつらさのないところには、心の癒しや成長はあり得ない。破壊的なものを含まない建設作業は存在しないし、争いや戦いが許されないところでは平和は実現しない。そのような場を支配するのは偽善と心の荒廃だけであろう。治療者は患者に対して、ときに破壊的な体験を矯正することがある。 ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー 心理療法家は自らの中立性を保つために、想像力を働かせてはいけないと考えて、独自のイメージを持とうとしてこなかった。患者との人間関係のもとに惹起される治療者の感情やイメージを抑圧したり分裂させたり否認することによってこそ、治療者の中立性は損なわれるのである。 ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー 現代の分析心理学者シュワルツ-サラントは、境界性人格障害者に対する心理療法経験から、絶望について、次のように述べている。「治療者が境界例患者を治療する上で、おそらく絶望ほど扱いにくい情緒はないだろう。しかし絶望は、魂を呼び出す切り札でもある」。魂を呼び出す切り札というのは、患者にとって絶望を体験することで初めて、魂の領域と真に交流することが可能になるという意味である。 ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー 強調しなければならないことは、人の心が絶望の極限に達するとき、そしてそれを心理的に体験するための治療者患者関係による守りが得られるときに、新しい心の動きが始まるということである。本章では補償的ファンタジーということに触れたが、それが治療者にとって絶望から逃れるための手段になってはならない。 ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー☆ー 織田尚生・著『心理療法の想像力』誠信書房より抜粋 |
『心理療法の想像力』 |
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2006-05-15 Mon 22:36
![]() ううむ・・・儂がやってるアヤシゲな技は、 「心理療法」だったのかぁ。。。 〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜 心理療法とシャーマニズムが異なるところは、後者ではあくまでもシャーマンが主導権を握っている点である。シャーマンが遊離した病者の魂を、天上界や近領域を旅することによって捕らえて連れ帰り、病者の身体に戻す。これがシャーマニズムによる病気治療である。 〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜 患者の夢内容や箱庭作品として表される内なる旅と、それに刺激されて治療者の心に生じた内的宇宙更新のための旅とは、別個のものである。心理療法家として、これら両者の対応関係を検討していくことが大切である。二つの旅は別個のものではあるが相互関係があり、いずれかが他方の原因になるのではない。共通の主題が同時に布置する。患者の内なる旅に刺激されて生じた治療者の宇宙論的な旅は、転移逆転移の視点からすれば変容性逆転移ということになる。 〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜 中間領域において心の癒しが生じるためには、私たちの想像力がある種の実体性を持たねばならない、想像力が実体的である場合、想像内容はその象徴機能によって、心の乖離や分裂を統合させる。 〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜 中間領域としての身体が癒しの機能を持つためには、その身体体験が実在性・象徴性そして超越性を備えていなければならない、ということを述べた。身体の覚醒ということは、中間領域におけるこれらの三要素を高めることに外ならなかった。 〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜 心の傷つきは、病者が内なる同行者を得ることによって癒される。 仏教関係の用語に同行(どうぎょう)という言葉がある。一緒に行く人の意から、志を同じくして仏法を信受奉行する仲間を意味するようになる。単独では難しくても、同志が互いに励ましあえば行じうる。また四国八十八箇所の巡礼者が、たとえ独りで巡拝する場合でも、いつも弘法大師が同道するという意味で、同行二人と書くのを例としたという。 心理療法による心の癒しは、治療的な対人関係によって生じる。この場合の対人関係は同行二人的な関係性によって支えられる。治療者は心の一部を用いて、自らの内なる患者の同行者となる。それによって初めて、患者の心に、内なる傷ついた自分と超越者との関わりが布置する。 病者はしばしば、内なる超越者を治療者に投影する。治療者は投影された超越者像と自身とを同一視してはならないが、投影を拒否すれば心理療法は進まない。治療者は投影を押しつけられた自分と、普通の人としての自身とを、ともに生きることを求められる。私たちは病者の心の癒しを援助する者として、想像力を用いることにより、さまざまの自分を同時に生きる必要がある。 〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜 織田尚生・著『心理療法の想像力』誠信書房より抜粋 |
休息 |
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2006-05-15 Mon 09:36
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緑に抱かれて・・・・ |
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2006-05-05 Fri 17:42
![]() ![]() ![]() 都心の喧噪を離れて 今日までお寺に籠もってました。 ここ1ヶ月の間、あれこれと忙しない生活が続いていたので 心も荒んでいたのでしょう。 フッとしたことで涙ぐみそうになったり、 夜なかなか寝付けなかったり。 高速の渋滞に巻き込まれながら 心の中の何かを押さえている自分を感じていました。 お寺で鳥のさえずりと新緑に囲まれていると まるで蒲(ガマ)の穂に包まれた因幡の白ウサギのように 傷ついた気持ちがが少しずつ癒えるようでした。 そうは言っても、なかなか気持ちは切り替わらず、 ようやく自分の心と向き合い、 行中らしくイマージュに没入出来たのは、 四座目がすぎてから。 時の経つのも忘れてしまうくらい、 ただ呼吸することとと低く唱える真言の響きに揺られ 「挙体性起」〜存在がただある〜 に没入した後の いいようもない空の青さと緑のコントラスト。 三泊三日の七座の行が明けると、知り合いからメールが。 添付してあった牡丹の写真から 2年前の夢の記憶が呼び覚まされました。 真紅の十六花弁の牡丹の中心に座し、 欲・触・愛・慢の四金剛菩薩を待つ愛染明王の夢。 正行中、なかなか熾盛の日輪が観想出来ず、 赤蓮華に座すクリスタルな愛染王になってしまったのは、 白蛇形の宇賀神の変化身? 不動明王法の前行としての愛染明王法は 巳サマと結願の日の雉のお出迎えと、牡丹の花メールで、 成満の徴(しるし)ということでしょうか。 明日は大般若湯会です♪ |
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| 東風(こち)吹かば |
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