ホームページ アフィリエイト レンタルサーバー (%ad2> 雑感 東風(こち)吹かば

東風(こち)吹かば

気に入らぬ 風もあろうに 柳かな

広がって歩いてて、なんともないのかね?





人と違うことがアイデンティティのはずなのに
なぜか、人との微妙な差異が
アイデンティティを揺るがし、不安を惹起させる。

3人以上だと、会話(対話)をするというより
話の表面(話題)をマッチさせることが
ナカマハズレではないという唯一のコミュニケーション手段かも?
だが、並んで歩きながらの会話は3人ではムリだろ?と思うんだが。

朝の出勤の時、人波に逆らって歩くことになる。
ところが、道幅一杯に広がって話ながら向かってくる輩がいる。
向こうが2人なら、どちらかがなんとなくよけてくれることが多い。
しかし3人以上の時は、だれもかわそうとはしない。
銘々がポータブル・プレイヤーを聞きながら
会話になるのか?と疑問を感じる。

こういう状況で人波を遡上すると
当然だが、向こうから来る人とぶつかる状況が生じる。
それでは行者として悔しいので、
丹田に気を込め、いつでも弾指が出来る準備をしつつ
呼吸に合わせて不動真言を唱えながらゆっくり歩くと
相手があわててよけようとする。

でもそれでもよけきれずに肩がぶつかることが多いし、
スミマセンも言わずに去っていくので、ムッとする。
ところが、リュックの肩ベルトを両手で掴み、
肘を前に突き出した頂心肘で歩くと、
なぜかぶつかる人もいなくなる。

ほら、やればできるぢゃないか!



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バッテリーがあがった





しばらく車に乗っていなかったところ、
バッテリーがあがってしまったため
急遽、JAFに応援を要請。

電話では20分くらい、ということであったけど、
10分も経たないうちに来てくれて、電圧測定。
公称12Vと言うことだけど、8Vまで下がっていた。
これではウンともスンとも言わないわけだ。

「前に乗ったのはいつですか?」と聞かれて
あやふやな記憶をたどりながら「4ヶ月前」ですと。

充電器をつないで
(昔はエンジンルームを開けて、バッテリー同士をつないでいた)
「これでかかりますから、かかったらエンジンを止めないで下さいね」

エンジンは難なく始動。
助かった。

その足でオートバックスに直行して新品のバッテリーを購入。


うちのすぐ近くに地下鉄の駅が出来てから
移動はもっぱら徒歩か地下鉄。
車に乗るのはお寺に行く時だけになってしまった。

今年はなんだかんだで行事の出仕を失礼させてもらっているが、
盂蘭盆会法要の前にトラブルが解消出来てラッキーだった。
だけど、またしばらく車に乗る機会がなさそう。


だけど福岡で勤めることになったら、
車は必要かなぁ・・・とか、すでにオファーを受ける気になっていて
さて、お寺やクリニックはどうしようかと考えながら
午睡を微睡む昼下がりなのでした。



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盂蘭盆・安居






ようやくお盆(盂蘭盆)前の診療が終わり。

このところ、通常の診療とは別枠で
家族・夫婦・カップルの面接を入れているので、
土曜日にクリニックを開けることが多くて、休んだ気がしない。
保険診療の枠内でやっているのでほとんどボランティアなのだけど。


うちに帰ってから来週の盂蘭盆会の準備。

今日、八角厨子入り大日如来が届いた。
ようやく自佛が形になった。

庭のトマトをお供えにしよう。



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「何の罪もない」〜自己愛性と反社会性〜





ため息をつきたくなる。

茨城県土浦、大阪駅、秋葉原、愛知バスジャック、八王子と
頻発する通り魔事件。

犯人は「ムシャクシャする」「誰でもよかった」という葛藤耐性の低さ、
「名前がマスコミに出る」あるいは「親を困らせてやりたい」など
未熟な自己愛。
マスコミ評は「身勝手」「理不尽」という言葉で埋め尽くされている。

コフートは二者関係(特に母子関係)の欠損により
共感と理解を得られない怒り〜自己愛憤怒〜を生じるという。
この自己愛憤怒が親に向けられずに無関係の他者に向いた時に
「通り魔」という形の行動化が生じているのだと思う。

コミュニケーション不全というか
期待と幻滅に満ちあふれた家族関係の空虚さ。。。



一方、被害者に対しては、犯人と無関係であり、
「何の罪もない」と同情が寄せられる。
無意識に使われるこの言いようにも
歪んだ自己愛の蔓延を感じるのは私だけだろうか。

自己愛の傷つきは、共感と理解の欠如という対象関係の欠損だが
自分のせいと感じられる。
「自分が悪いんだ」「わたしがしっかりしていないからいけないんだ」

しかし、正当化という防衛反応によりこの傷つきが外に向かうと
「自分がこうなったのは」親のせい、学校のせい、社会のせいと
罪のありかが外界に投影・転嫁される。

「罪もない人を傷つけるのは悪いこと」が一転して、
「自分をこんな目に遭わせた社会に仕返しするのは当然のこと」という
反社会性として凝縮される。

つまり、「何の罪もない」と犯人を糾弾している人の中にも
立場が逆転する可能性が充分にあるということだ。


犯罪心理学には詳しくないが、
以前から「何の罪もない」という言い方に違和感を感じていたので、
自己心理学との関連で自己愛・反社会というスペクトラムを考えてみた。




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医療は崩壊したのか?腐敗してたのか?





とある著明な大会社の社員さんを復職させようとしたら
「産業医はいるが機能してない」とのこと。
何のことかわからなかった。
話を伺うと、これまで休職した後に復職した人はいないとのこと。
さらにわからなくなったので、産業医宛に診療情報提供書を送り、
面談を依頼したのだが1ヶ月以上なしのつぶてだったので、
患者さんが人事部と話し合いに行ってくれて、ハッキリした。

つまり産業医は名ばかりで、会社は名義貸し料を払ってるだけとのこと。
産業医面談をするとプラスウン万円必要とのこと。
おまけに、「健康な状態で雇ったのだから、
復職時も雇用時と同じ状態になっていないと復職は認められない」と
人事部長に言われたとのこと。
厚生労働省の「労働者の心の健康の保持増進のための指針」や
「心の健康問題により休業した労働者の職場復帰支援の手引き」は
努力目標であって、実現目標ではないとのこと。

あっけにとられた。
怒りを通り越して、ため息しか出なかった。
情けなさ過ぎる。

仕事柄、これまで数十人の休職と復職を手がけてきたが
こんないい加減な会社を相手にするのは初めてだった。
おまけに、産業衛生の場でも名義貸しがあることに
愕然とした。

私自身も大学院の時に、教室の某文部教官の口利きで
名義貸しをしたことがある。
それでも、月に1回の当直と外来は必須だった。

某公立大学医学部の準教授が
学位審査の謝礼を受け取っていた問題がニュースを賑わしたが、
うちの母校でも学位論文の主査と副査2人の教授に
謝礼を包むのが慣例になっており、
その後、お礼奉公として辺鄙な関連病院に出向することが当たり前だった。

点滴液の作り置き問題にしても、
ある医療機関に勤務中に、入院した患者の抗生剤治療中に
点滴後に悪寒戦慄を伴う発熱を来すようになり、
結局、敗血症で亡くなったケースが何例かあった。
看護師さんとやり合ったが、作り置きの解決には至らなかった。

研修医制度が始まって以来、病院の医師不足が問題になっているが、
医療が崩壊したのは、医療という幹がすでに腐敗していたからではないのか?
これまでの自分の来し方を振り返り、現状を鑑みるとそう感じざるを得ない。


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内科的精神科と外科的精神科

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精神科のドクターが集まる、ある会合でのディスカッションの時、
「患者さんの心の中に踏み込むのは良くないのではないか」
という趣旨の意見が出た。

驚くというよりも、やっぱりそぅだよなぁ・・・と思った。
以前から、なんとなく精神科医には2つのタイプがあって、
精神療法に対して消極的というより、否定派もいらっしゃるのでは?と
思っていたが、やっぱり・・・という感じだった。

それはそれで、いいのかもしれない。
精神療法は、分析のような特定の方法を教わる場合は別として、
系統的に教わるものではなく、先輩のやり方をまねつつ
なんとなく、それらしい話をして終わるのがほとんどだからである。
たとえて言うなら、ほとんどの精神科のドクターは、
薬物療法を主とする内科的な精神科医なのかもしれない。
だから、患者さんの無意識に踏み込むのは
領域侵犯のような感覚で回避されるのだろう。
分析であれ、その他の精神療法であれ、
ある技芸(メチエ)を身につけて、患者さんの心に向かうのは
外科的な精神科といえるだろう。

どちらがいい・・・とは一概に言えない。
自分の本当の姿と向き合うのを避けている患者さんがほとんどなので、
癌の治療で化学療法や放射線療法を選択するのと同じように、
いろんな薬で症状を軽減する多剤併用になるが、
気長にノンビリと治療に向かう事が出来る。

精神療法という外科領域では、
自らの心をメスとして使うため、
薬はギプスや化膿止めという役割を担うことになる。
ただ外科と違うのは、治療が共同作業になるため、
お互いの無意識領域での影響が出やすくなる。
そのため教育分析という、自らがクライアントになっての修練を積む。

それでも相互影響はいろんな形で現れてくる。
たとえば、セミナーや勉強会の後、そのような患者さんが続いたり、
受付のスタッフが患者さんと同じような状態に陥ったり。
潜在意識(無意識)の力動がわからないと、
原因不明の体調不良や、なんとなく自分ではないような感じの、
「伝染(うつ)」ったり、「憑依(つ)」かれたりの状態になる。

TVなどで見かけるスピリチュアル云々の多くは
このたぐいであることがほとんどのようだ。
以前、拝み屋さんから受診を勧められたと
患者さんがいらっしゃったこともあるし、
あるいは、私がお祓いを勧めたこともある。
後者の場合、私がやってもよかったが、
一応、医者として向き合ってたので
どこそこのお寺でこれこれという祈祷をしてもらうように勧めた。

とはいうものの、決して大脳局在論とか
セロトニン仮設、ドーパミン仮設を否定するのではなく、
科学だけでは説明出来ない「心のありよう」があることを
ただ謙虚に見ているだけである。



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自己欺瞞






先日、TVで防犯グッズの特集を見ている時のこと。
最近流行りのポータブル・ミュージック・プレイヤーを聴きながら歩いていると、
周囲の音が聞こえないというのだ。

インタビューに答えた女の子が話していた。
「音楽を聴いて明るい気持ちになっていたら、暗いのが怖くないから」


愕然とした。


チベットのあるラマが、現代社会を指して
「神経症的な、あるいはパラノイア的な狂騒」とおっしゃった。

自我(エゴ)は「その自己に快楽を与え、苦しみから守ろうとするのだ。
日々の体験は、私たちに自己の無常さをさらけ出す脅威をたえまなく与える。
そこで、私たちは自分の真の状態を見出すあらゆる可能性を覆い隠そうとあがくのだ。」

「私たちは自分の混乱した世界観に完全に飲み込まれ、
それがリアルな、存在しうる唯一の世界だと信じ込んでいるからだ。
固定して継続的な自己という感覚を維持しようとするこのあがきこそ、
エゴの行為に他ならない。」(チョギャム・トゥルンパ『タントラへの道』)



通り魔的な犯罪のような自己の無常さをさらけ出す脅威に対して
自分自身(自己)を継続しようとする危険回避本能を放棄してしまうくらい
自己の土台である無(空性)への怖れの方が大きいというのか?
暗闇恐怖の方が本能よりまさっているのか?


自己欺瞞を勝ち取った自我(エゴ)は、その策略によって
私たちの世界を何処に向かわせようとしているのだろう。





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愚痴





本当は22日(日曜)に統合失調症の心理セミナーがあったのだが
21日(土曜)の夜に「初発統合失調症」の精神医療セミナーに出たので
安息日に充てて、ためていた論文のまとめ読み。
振り返ると11日(水曜)から10日間、ほぼ1日おきに5回の
研究会やセミナーに出ていてかなり疲れていた。

しかし7月6日(日曜)から15日(火曜)までの10日間に、
また6回も会合があるので体力勝負になりそう。
その間に、本来休診日の土曜日に家族面接を入れているので
結局、休む暇なしの日々が続いてしまう。

一般にメンタルクリニック系では
1ヶ月後の患者さんの定着率は50〜70%と言われている。
土曜日にお会いした知り合いのドクターは
水・木・日が休みで、土曜日の診療をなさっているが
フツーに新患も受け入れておられた。
しかし、うちのクリニックはというと・・・・

新患を受け入れる時間枠の確保もままならないどころか、
再診の患者さんの時間にも困難をきたしている。
土曜や朝の早い時間に書類書きをしているが
これとて、上記の家族面接で時間が取られるため、
必然的に持ち帰りの書類が多くなる。

愚痴をこぼす相手もおらず、こうやって燃え尽きていくのかもしれない。




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肘をついて食べるのは?






「所変われば品変わる」と言われるように
マナーも千差万別。
たとえば、エスカレーター。
関東では左側に立ち、右は急ぐ人に空けておく。
しかし関西ではこの逆。

ナイフとフォークの文化では
テーブルの上に両手を出しておくのがマナーだし、
お隣の韓国では椀を持ってはいけないらしい。

外食が多いせいか、肘をついて食べている人をよく見かける。
椀を持った左肘をついている人より
なぜか箸をもつ右肘をついている人が多いのが不思議。
動かしにくいだろうに。

肘をついて食べるのは行儀が悪いと言われ
子供の頃によく注意された。
あぁ!食卓の高さの問題か。
畳に座って卓袱台だったから、
大人であれば肘のつきようがなかったのだ。
子供にとっては食卓がちょうど良い高さだったので
つい肘をついていたのか。
それで正座して食べるように躾けられた。

今の世の中、肘をついて食事をする人が多いのは
テーブルと椅子の文化になってしまったからかもしれない。
肘をついて食べる人は、ナイフとフォークを使う時は
どうしているのだろう?
ならば、肘のつきようがないお膳では
どうやって食べるのだろう?

足を組んで、肘をついて、背中をちょっと捻りながら傾けて
なんだか「いただきます」も「ごちそうさま」もないのかもしれない。
加行中の二食作法とは対極にある世界のようだ。

飽食の時代だからこそ、施餓鬼は必須なのかもしれない。






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途を訊ねられる




最近、よく道を聞かれる。



先週は中国系の女性からいきなり英語で話しかけられてドギマギ。。

幸い近くの場所だったので、サビついた英語でも何とか伝わった。
(と、思うし、そう願っている・・・・)


今朝もまた。


ちょうどそっち方向に行くところだったので

一緒に行ってあげようかとも思ったが

お節介かな?と。。。。


道順を教え、その人の後からついて行く格好になった。



ある意味、心理療法ってのもそんなものかもしれない。

後ろを歩きながら、そんなことを考えていた。






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