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東風(こち)吹かば

気に入らぬ 風もあろうに 柳かな

『精神科セカンドオピニオン』






治療を引き受けている側からすると、かなり衝撃的な内容でした。
というか、信じられないというより、信じたくない気持ちです。
精神科医の良心を信じたい。

でも、事実なんですよね、ここに挙げられたケースは。

患者さんあるいはその関係者からの視点で書かれていますので、
医療不信、というより薬害に対する過剰な反応が見られますが、
初診時の「診立て」ということから考えると、
妥当かな?と思える診断が2割、8割はおやっ?と感じました。

治療現場では前医を非難してはならないという不問律があります。
最初に診た医師よりも、後で診た医師の方が
データや治療反応性まで含めて診る事が出来るので有利だからです。

だけど、それを除いてもここに挙げられたケースを読むと、
向精神薬という劇薬を投与する治療者の逆転移に対する無自覚さを
残念ながら痛感せざるを得ませんでした。

抗精神病薬の使い方や、抗うつ剤を最大量使うなど、
セカンドオピニオンを担当している医師のクスリの使い方には
100%首肯するわけではありません。

強迫性障害や不安障害、不登校あるいは発達障害などの
症状に対して向精神薬を使うというセカンド医と、
対象関係論的な病態水準に対しての「守り」の意味で使う
私のスタンスの違いでしょう。

それに、カーンバーグのいう病態水準を診ているのか、
ビオンがいうように神経症圏でも治療者の中に
違和感というか陰性治療反応が惹起されることを
発達と関連した病理として対象関係論的に診立てるかの違いもあるし、
精神療法、心理療法を行うかどうか、
加えて、どういうスタイルで行うかの違いでもあると思います。

しかし、全体としてのクスリの使い方、
たとえば抗パーキンソン薬を使わないとか、
デパケンやリーマスなどの気分安定剤(ムード・スタビライザー)や
クロナゼパム(ランドセンやリボトリール)の使い方は、その通りと思いますし、
私自身も同様の使い方をしています。

なによりもこの本の卓説した箇所は、
「セカンドオピニオン実現への道〜主治医といかに協働するか」の章。
医師は治す人、患者は治してもらう人というパラダイムを越えて、
森山公夫先生がおっしゃるような関係性の中での回復という
本来のあるべき姿を改めて浮き彫りにした
優れた良書と言えると思います。





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智恵のエッセンス


最近、本の紹介ばかりでどうかと思いますが・・・・(^^;)


久しぶりにゾクチェン関係の本を読んだので紹介します。

それもボンポに伝わるゾクチェンの本
『智恵のエッセンス』


目次は出版社のサイトを見ていただくとわかるとおり、

輪廻と涅槃の分離(コル・デ・ルシェン)とともに

ゾクチェンに特有の前行のうち、

「三つの門の浄化(ゴ・スム・ジャンパ)」について詳しい。

内容的にはロンチェン:ニンティクとほぼ同じか。



さらにテクチュー、トゥゲル、バルドとポワ。

内容は・・伝授がキホンのため・・言明を避けるが

たしかに直接教えを受けながら行ずる

指南書というか修行テキスト。



ニンマもボンもゾクチェンはゾクチェン!!



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『月に映すあなたの一日』


久しぶりのミクシィです。



先日、友人の精神科医が

クリニックにふらりと立ち寄ってくれました。



四方山話の中で、面白い本を紹介してくれました。

『月に映すあなたの一日』

1から13までの数字の中から一つ、

1から28までの数字からもう一つを選んで、

上記の本の該当するページを開くと

その時の状況を示唆しているんだとか。



まるで心易みたいな使い方ですね。







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『心理療法の想像力』





ううむ・・・儂がやってるアヤシゲな技は、
「心理療法」だったのかぁ。。。


〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜

心理療法とシャーマニズムが異なるところは、後者ではあくまでもシャーマンが主導権を握っている点である。シャーマンが遊離した病者の魂を、天上界や近領域を旅することによって捕らえて連れ帰り、病者の身体に戻す。これがシャーマニズムによる病気治療である。

〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜

患者の夢内容や箱庭作品として表される内なる旅と、それに刺激されて治療者の心に生じた内的宇宙更新のための旅とは、別個のものである。心理療法家として、これら両者の対応関係を検討していくことが大切である。二つの旅は別個のものではあるが相互関係があり、いずれかが他方の原因になるのではない。共通の主題が同時に布置する。患者の内なる旅に刺激されて生じた治療者の宇宙論的な旅は、転移逆転移の視点からすれば変容性逆転移ということになる。

〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜

中間領域において心の癒しが生じるためには、私たちの想像力がある種の実体性を持たねばならない、想像力が実体的である場合、想像内容はその象徴機能によって、心の乖離や分裂を統合させる。

〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜

中間領域としての身体が癒しの機能を持つためには、その身体体験が実在性・象徴性そして超越性を備えていなければならない、ということを述べた。身体の覚醒ということは、中間領域におけるこれらの三要素を高めることに外ならなかった。

〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜

心の傷つきは、病者が内なる同行者を得ることによって癒される。
仏教関係の用語に同行(どうぎょう)という言葉がある。一緒に行く人の意から、志を同じくして仏法を信受奉行する仲間を意味するようになる。単独では難しくても、同志が互いに励ましあえば行じうる。また四国八十八箇所の巡礼者が、たとえ独りで巡拝する場合でも、いつも弘法大師が同道するという意味で、同行二人と書くのを例としたという。

心理療法による心の癒しは、治療的な対人関係によって生じる。この場合の対人関係は同行二人的な関係性によって支えられる。治療者は心の一部を用いて、自らの内なる患者の同行者となる。それによって初めて、患者の心に、内なる傷ついた自分と超越者との関わりが布置する。

病者はしばしば、内なる超越者を治療者に投影する。治療者は投影された超越者像と自身とを同一視してはならないが、投影を拒否すれば心理療法は進まない。治療者は投影を押しつけられた自分と、普通の人としての自身とを、ともに生きることを求められる。私たちは病者の心の癒しを援助する者として、想像力を用いることにより、さまざまの自分を同時に生きる必要がある。
〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜☆〜

織田尚生・著『心理療法の想像力』誠信書房より抜粋

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即身


昨日の日記で書いた「Gyo〜行」と一緒に

Amazonのマーケットプレイスで

即身〜密教パラダイム」を購入したんですよ。


表紙がいいでしょう?(^o^)

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法華経サンバ♪


ton108oshow現品限りサマオススメの

法華経サンバ「Gyo〜行」が届きました♪o(^o^)o



聴いてみて大爆笑!

やっぱオキョーはスゴイw。




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山の宗教とゾクチェン





河出書房「空海〜世界的思想としての密教〜」より
中沢新一さんのインタビュー部分より抜粋。


・・・空海のあの精緻な体系を統一しているのは
  いったい何だったのでしょうか?
  実は僕は、
  それがゾクチェンの教えのようなものではなかったか
  と思っているのです。・・・

・・・最期まで自分は
  「沙門(当時の私度僧=山の宗教者)」たちの一員である
  と署名し、主張している。・・


・・・山の宗教というのは、
  仏教の外にある、
  仏教をはみ出してしまっている教えです。
  そしてこの山の宗教の中にあるものを、
  空海はおそらく
  自分の宗教思想の根幹に据えているのだろうと思うのです。

・・・非都市的なもう一つの仏教があった。
  それは一万年以上の歴史を持つ、
  ということは縄文以来の伝統につながる、
  野生の宗教の末裔としての仏教です。・・・

・・・つまり仏教的な思想の極限に出現してくる
  自然の光について、
  空海は完全には語り抜いていません。
  「阿字観」という考えに出てくる
  存在の根源である「ア」の教えの方が、
  おそらくは密教の果てに出現する
  人類の本質である
  流動的知性に触れているのだと思います・・・



観想法もプラーナ統御も捨て去った、
シンプルで自然な境地(ランシン)と同じような境涯が
日本にも縄文の太古より伝承されていた。

弘法大師空海も、「一人の沙門」よりうけた
虚空蔵菩薩求聞持法により、その境涯の一端にふれられた。

そして、生涯、自分は山の宗教者(山伏)の一員であると
高らかに宣言され続けた。。。

ゾクチェンから修験に入った私には
中沢さんが言わんとしているところは、すごくわかりやすい。w


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子供のイジメよりも悪質?



“モラハラ”おやじ撃退法

職権などを背景にした、職場における嫌がらせ、いじめ、
暴力を「パワー・ハラスメント」とも言うそうです。

うちのクリニックにも、時々、
相談に見える方がいらっしゃいます。



実は以前、勤務してた病院がそうでした。
当時の同僚医師は、辞めた今でも
病院を相手に闘ってます。


子供のイジメを問題にする前に
大の大人の、大人げない部分に光を当てるのが先決!

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〜波〜



今夜はなんだか、まったりしたくて、

小嶋さちほさんのCD『観音楽』に収録されてる

「〜波〜」をエンドレスで聴いてます。
(リンクは原作者どんとさんの「〜波〜」)


揺蕩うままに、夢の中へ・・・・







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ダライ・ラマの「般若心経」〜心の本性の教え〜




ジュアンさまの日記で、本日渋谷のUPLINKギャラリーで
「ダライ・ラマの『般若心経』」のレイトショーがあるのを知り
仕事を終えて渋谷へ急行。

こぢんまりとしたシアターは超満員。

感動さめやらぬうちに、
いくつか、憶えていることを書き出してみます。


般若心経を読み誦えること、写経に功徳があるか?との質問に、
法王は、帰依の心を持ち読誦するなら、功徳がないこともない。
できれば理解した方がよいが、宗派により解釈の違いがある。
しかし、般若心経の真髄は空(シュニャ)であると、
と空の説明をされました。

空とは「そのもので存在することの欠如
(absence of independency)」であり、
「私(自我)」と「私の心」のような所有ではなく
相互依存性(inter-dependency)である。

この空を理解し、体験することが大切であると。

仏教には、サマディ(one-pointedness)とヴィパサナの
2つの瞑想法がある。
このサマディとヴィパサナが一体になった状態が
ブッダの覚りである。
私たちは皆ブッダになる可能性(buddha nature)をもっている
と如来蔵教典は説く。

般若心経は空の体験と理解を通じて、
「掲諦 掲諦 波羅掲諦 波羅僧掲諦 菩提薩婆訶」の
真言乗(mantra yana)の5つのレベルに達する。
修習と、自分がどのレベルに達しているかがわかる。
涅槃とは、ブッダも空性も空に溶け入った状態である。

その体験から、カルナー(慈愛)を起こすことが大切。


法王の説かれる般若心経は、平易でありながら
ものすごく奥が深く、
まるで、ゾクチェン・セムデ(心の本性)の教えのようでした。

さまざまなレベルの解釈がある般若心経を
宗派・学派に偏らずに理解するには、
そのもっとも根底である「心の本性」に関わる
ゾクチェンの教えとしてお説きになられた法王の境涯の高さに
身のうちが震える思いを抑えることが出来ませんでした。

また、真言乗の5段階の説明は、
宮坂宥洪師の『真釈 般若心経』のモチーフと一致しており、
宗派を超えて、仏教の本質が揺るぎないこと、
そして、日本にも、
そのような見解に到達した碩学がいらっしゃることは
私たちの誇りでしょう。

法王が仰るサマディは、シャマタ(止)であり、
サマディとヴィパサナが不ニになった状態は
ニェ・メ(ニャムニ=one taste:一味)とよばれ
ゾクチェンとマハー・ムドラーの共通の境地だといわれます。

ここにきて、ようやく、ゾクチェンの師のお一人が
「中観(空)の教えは、ゾクチェンの教えとして聞きなさい」
とおっしゃっていたことが理解出来ました。


「大いなる感性」と言われる、すべての生きとし生けるものに、
最初から内在的に備わっている心の本然の状態、
すなわち「あるがままで完成している心の状態」
もしくは「原初の境地」を意味するゾクチェン。

その普遍的な境地はチベットだけでなく、
アボリジニの文化ではドリーム・タイムとして、
そして私たちの日本にも伝承されています。

ゾクチェンから、日本固有の修験に身を投じた私には
もういちど、最高の境地であり、同時にすべての土台でもある
「心の本質」に立ち戻るということを
改めて気付かされる映画でした。


合掌!

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