解離機制によるストレス対処と憑依およびその治療 |
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2008-07-06 Sun 19:35
![]() ストレスとなるようなイベント体験は、通常、 時間の経過とともに過去の記憶に伴う苦痛は薄れていく。 おそらく、エッセンスである経験とイベント記憶と感情のパーツに消化され 各々が脳内のいろんな部分に蓄積されることで 時間とともに感情や記憶が流れて風化していくように感じるのだろう。 ところが、である。 中にはこういう処理が出来ないため、 とりあえず自我の袋で包んでイベント体験のまま放置されているらしい。 このような対処では、一時的に苦痛は回避されても、 その感情に伴う苦痛や葛藤は消化されることがなく、 類似体験を繰り返すことで葛藤が蓄積し、 それを包み込み周縁化するために自我はどんどんやせ細り、 心理的負担は大きくなり、ストレスに耐えられなくなる。 このような状態では、「“今・此処”にいる私(主人格)」の中に 「過去のままのもう一人の私(交代人格)」が共存することになる。 このような典型的解離性障害ではなくとも、 プチ解離的なストレス対処(内在性DID)は多くの人で見られ、 自問自答(あるいは脳内会議)をすることが多いという。 今日のセミナーは、こういう内在性DIDに対する 『タッピングによる潜在意識下人格統合法(USPT)』だった。 要はタッピングにより交代人格を呼び出し、主人格と統合する方法。 プロセスワークの1次プロセス・2次プロセスと技法的には共通しており、 ナラティヴを紡ぎ出して統合まで導き、肩甲骨周辺へのタッピングで統合する。 面白いのは、最後に、基本人格を成長させ、主人格をその中に入れてしまうやり方。 プロセスワーク的には、2次プロセスを生きるということであろうか。 エッジ(抵抗)を越える時には、意識レベルを下げるタッピングの方が やりやすいのかもしれない。 また、統合の時の肩甲骨周辺(特に風門部)へのタッピングは 抜き加持の最後にも風門を閉じる作法があるように、 セラピーの構造枠として有効なのかもしれない。 ただ、”憑依人格”とされたものは、本当に霊かどうかは定かでなく ビデオを見ている感じでは、単なる自我から遠い人格であるように思えた。 なぜなら、ニューエイジ系が言うような頻度で憑きものとしての憑依は起きないし、 輪廻する主体が人格であるのもあり得ない(多くは残留想念?による被影響体験)。 USPTでいう浄化という「光の天国に送る」作業は、 単なる二元論の中への送還、つまり輪廻の中に戻しているだけなので、 USPTは「困難があっても自分で乗り越えていく」覚悟のない人には適応とならず、 また統合後もそれまでの回避・解離的なストレス対処の習慣をやめない限り いつしか複数の交代人格を作っているという輪廻に戻ってしまうからである。 これは祈祷の場合も同じで、「やってもらう」というお任せ感覚では験が出ないので 祈願内容によって、ある一定期間の写経や勤行を課す事が多い。 つまり、交代人格の統合が治癒的に働くのではなく、 モチベーションと治療者との共同作業が奏功するのだろう。 |
自己欺瞞 |
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2008-07-04 Fri 22:24
![]() 先日、TVで防犯グッズの特集を見ている時のこと。 最近流行りのポータブル・ミュージック・プレイヤーを聴きながら歩いていると、 周囲の音が聞こえないというのだ。 インタビューに答えた女の子が話していた。 「音楽を聴いて明るい気持ちになっていたら、暗いのが怖くないから」 愕然とした。 チベットのあるラマが、現代社会を指して 「神経症的な、あるいはパラノイア的な狂騒」とおっしゃった。 自我(エゴ)は「その自己に快楽を与え、苦しみから守ろうとするのだ。 日々の体験は、私たちに自己の無常さをさらけ出す脅威をたえまなく与える。 そこで、私たちは自分の真の状態を見出すあらゆる可能性を覆い隠そうとあがくのだ。」 「私たちは自分の混乱した世界観に完全に飲み込まれ、 それがリアルな、存在しうる唯一の世界だと信じ込んでいるからだ。 固定して継続的な自己という感覚を維持しようとするこのあがきこそ、 エゴの行為に他ならない。」(チョギャム・トゥルンパ『タントラへの道』) 通り魔的な犯罪のような自己の無常さをさらけ出す脅威に対して 自分自身(自己)を継続しようとする危険回避本能を放棄してしまうくらい 自己の土台である無(空性)への怖れの方が大きいというのか? 暗闇恐怖の方が本能よりまさっているのか? 自己欺瞞を勝ち取った自我(エゴ)は、その策略によって 私たちの世界を何処に向かわせようとしているのだろう。 |
家族面接 |
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2008-07-02 Wed 23:21
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変化〜〜メタモルフォーゼ〜〜 |
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2008-06-30 Mon 21:58
![]() もうどのくらいになるのだろう。 サナギから孵化したような患者さんを目の当たりにして 中断の時間がゆるゆると埋まっていく。 おそらく自分の中でインキュベーションを繰り返し 充分に熟成が進んだので再生してみた。。。 まさにそんな感じだった。 一方、中断の時間が腐敗につながる場合もある。 外界との緩衝剤として産出された適応障害としての症状が 次第に自我違和的な神経症的症状になったところで 患者さんは変化を拒絶した。 症状は次第に自我を浸食し、違和感が薄れ、 「今のままで構わない」と促進する内服も拒否し、 「薬を飲むと頭がおかしくなる」と言い、 パーソナリティ障害的に症状と分かちがたく融合してしまった。 連れ立つ友なる二羽の鷲は、同一の木を抱けり。 その一羽は甘き菩提樹の実を食らい、他の一羽は食らずして注視す。 甘き菩提樹の実を食らわせたの、自我の策略だったのか。 |
結界〜境界の形成〜 |
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2008-06-29 Sun 16:36
![]() 昨日、エンボディード・ドリームワーク専門の配偶者とワークの場の話になった。 エンボディード・ドリームワークでは、 半覚醒の意識状態〜hypnogogic state〜で、 夢の中に立ち現われてくる目に見えぬイメージを 体(形)を具えたものにならしめる(具体化する)プロセス、 つまりイメージに体(形)が与えられ、 その夢の中に組み入れられ、夢の中に融合していく。 夢の中に入り、現われてきたイメージのさまざまな側面に入り、 そのイメージを身体性を伴って体験することこそが ドリームワークでは重要なのであるなら、 夢を体現(embodied)していく誘導は、 『私』の中に『私』とは異なる、 夢を作り出している「夢主」(dreamer)を召喚・生起し 受肉(incarnate)させる作業に他ならない。 つまり、『私』の中に、「変容の容器」である夢の場を創り出すことこそ エンボディード・ドリームワークの主眼ではないか? 変容の容器については、ユング派の故・織田尚生先生が 『心理療法の想像力』の中で以下のように述べておられる。 治療者と病者との中間領域に守られた場、つまり容器を形成し、そこで変容の過程を体験することによって癒しが生じる。治療者と患者とは治療的な対人関係を形成するが、外的な両者の関係性ばかりでなく、容器のなかに同時に関係性を生じている。このような二つの関係性を治療者として体験していくことは、必須の作業であろう。 中間領域という概念は、なぜ必要だろうか。臨床経験から考えてみよう。心の変容が容器のなかで生じるとすれば、私たちはこのような容器のあり場所をどこに求めればよいだろう。容器は生きた器でなければならず、それが治療的な対人関係と想像力によって生じることから、変容の容器は治療者と患者との中間領域に生じると言える。 心理療法とは、治療的な容器を治療者と患者との間に成立させ、その容器のなかの過程の進行を守っていく作業である。ところで容器を形成し保持するためには、治療者は想像力を、どのように働かせたらよいだろう。 すでに述べたように、私の心のなかには二種類の想像力が働いていた。ひとつは荒寥とした雪の駅舎であり、他方はもっと明るい牧場の光景である。前者は患者の心象風景に近く、後者は治療者本来の想像力の世界に近い。ここでは治療者に複数の心性が作用しており、後者に関する想像は女性の絶望を補償する補償的ファンタジー(逆転移)であるとも言えるだろう。大切なことは患者の絶望に共感するばかりでなく、それに刺激されて生じた補償的な想像活動にも注目し、両者の間のずれを体験することである。このことによって、治療者と患者との間の中間領域における治療的な容器の形成と、そこでの変容過程とが促進される。 患者にとって、心理療法が進展するまでの間は、建設的な治療者患者関係を、想像力を用いて心理的に体験することは困難である。心理療法には危険性が内在しており、治療者と患者との中間領域に守られた容器を形成することができず、治療者が実際に体の病気になったり、患者との問題に巻き込まれて精神的な変調を来すこともある。ときには治療者が、困難な患者との関係性が引き金となって自殺してしまうという危険すらある。治療者自身を守れなければ、患者を守り通すこともできない。治療者は心のなかに傷ついた患者を想像力を通して抱えながら、しかもその作業に圧倒されないように自分を守り続けるという、困難な課題を背負わされている。 『私』の中に、守られた「変容の容器」である夢の場を創り出すこと その中で進む変容が漏れ出さないようにするには、結界が不可欠ではないのか、と。 「ボズナック先生に聞いてみる」と配偶者。 密教の修法では、本尊を浄土から召喚し、供養し、 撥遣して浄土にお返しする作法の前後で、五種の結界結護がなされる。 エンボディード・ドリームワークのやり方は 慧印万行自在法の口訣として師匠から教わった 「自身の心蓮台の上に本尊を生起し、壇上に撥遣供養し再び心蓮台に導引する」 というプロセスと似ている。 ここでの結界は、心理療法での変容の容器でもあると同時に 自身即本尊瑜伽の場でもあり、空性が具現する場でもある。 ドリームワークや心理療法のセッションを終結する時に 空性に還すプロセスが欠如していることは、 場に生起された無意識の力に巻き込まれ その影響を受け続けるという危険に巻き込まれかねない。 実際に人によっては数日間、体調を崩すなどの影響も出ている。 ならば、心理療法においても 荘厳行者法、結界法、荘厳道場法、勧請法、結護法、供養法の 5つの修法プロセスをなぞることは、 クライアント、セラピスト、第三主体を含めた場を守る 力として作用するのだろうと考えている。 |









